「生まれて、すみません」
きょうの主人公、小説家の太宰治(だざい・おさむ、1909~1948)がのこしたことばです。
読者のみなさんはどうお感じになりますか。
「すごい自虐的だね」
「そこまで自分をおとしめることないのに」
「なんとなく、キザだ」
太宰にはさまざまな見方ができるでしょう。確かなのは、素直なひとではない、ということですね。「斜陽」や「人間失格」といった代表作にも、冒頭のことばと共通する罪の意識がみてとれます。なぜ、かれはこのように屈折した考え方になったのでしょうか。筆者は、だだっ広く、青々とした、かれの故郷の原風景にその手がかりがあると考えています。
太宰が生まれた青森県金木村(現・五所川原市)の現在の風景
太宰こと本名、津島修治(つしま・しゅうじ)は、いまからおよそ110年前、青森県金木町で生まれました。当時、津島家は「金木の殿様」といわれるほどのお金持ちでした。津島家の納税額はなんと青森県で上位4番目だったそうです。中学時代からの友人、中村貞次郎(なかむら・ていじろう)は津島家についてこう評しています。
「太宰の生家は、豪農の家らしく大きな邸宅であった。総二階で幾室も立派な部屋があった。そのうちに洋間が一部屋あってオルガンが置いてあった。階下の離れにも洋間があった。その洋間にはピアノを置いてあった。私は太宰にこのピアノは誰がひくのか、たずねたら『誰もひく人はないんだ、これは部屋の装飾だよ』と答えた。私はその豪華さに唖然としたものであった」
太宰の生家は現在、「斜陽館」という名の記念館になっている
うーん、うらやましいですね。太宰は何不自由のないお坊ちゃんとして育てられたのです。ところが、当の本人の認識は違っていました。むしろ、みずからの境遇をさげすんでいました。
「私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持ちの子というハンデキャップに、やけくそを起こしていたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持ちの子供は金持ちの子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた」
太宰の自伝的小説「東京八景」の一節です。筆者はここに人間・太宰をみます。
太宰は38歳で亡くなるまでの間、自殺未遂を4回繰り返し、薬物中毒にもなりました。雲間からさす光のように「走れメロス」や「富嶽百景」といった明るい作品もてがけましたが、終生、苦悩がつきまといました。生まれ育った環境にたいする違和感がそもそもの始まりだったようにおもえます。
太宰の師で小説家の井伏鱒二は太宰の人柄について「おしゃれはするが、おしゃれだと思われることが照れくさいひと」と評した
太宰の心象風景を知るには、当時の農業に目を向ける必要があります。大地主で、鉄道や銀行も経営していた津島家の富の源泉は、広大な農地からあがる収入だったからです。
当時の農家には3つのパターンがありました。1つ目が、自分で農地を所有し、自ら耕す「自作農」。2つ目が、地主から土地を借りて農地を耕し、小作料を支払った残りで生活する「小作農」。3つ目がその中間にあたる「自小作農」です。
津島家をささえていたのは、小作農でした。太宰が15歳のときの津島家の財力を示すデータがのこっています。津島家が所有する田んぼは東京ドーム46個分、津島家に小作料を支払う小作農は290世帯におよびました。小作農が津島家に支払う小作料は年間収穫量の半分だったそうです。
問題は、津島家が農地を手にすればするほど、豊かな暮らしとは縁がない小作農が増えるという現実でした。1897年ごろは1万2000人~3000人だった青森県内の小作農は、1926年には3万人を上回るまでになりました。自作農から自小作農に、自小作農から小作農に転落するケースが相次いだからです。一方、それと反比例するように、農地を拡張していったのが津島家でした。太宰がうまれ育った金木村からほど近い車力村(現・つがる市)の村史はこう解説しています。
「小作人から取り立てた米や金は、地主によって、こんどは商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された」
じぶんが栄えるほど、貧しいひとがふえるーー。太宰がさいなまれた感情はこれだといっていいでしょう。
国際社会で重視されているSDGs(持続可能な開発目標)では貧困解消が大きなテーマになっている
現代はどうでしょうか。先日、フィナンシャルタイムズという外国の新聞にこんなコメントがのっていました。米国・サンフランシスコ在住の元ITエンジニアのダウ・カウチさんが、心機一転、貧しいひとたちを助ける政治活動に取り組みはじめたという記事の一コマです。
「優秀で高い教育を受け、意欲も情熱もある人たちが誰かを金持ちにするための仕事をしている。私もそれに加担していた。だから今はもっと自分の価値観で生きようとしている」(カウチさん)
どことなく、太宰にちかいものを感じませんか。歴史は繰り返すのかもしれません。
(おわり)
きょうの主人公、小説家の太宰治(だざい・おさむ、1909~1948)がのこしたことばです。
読者のみなさんはどうお感じになりますか。
「すごい自虐的だね」
「そこまで自分をおとしめることないのに」
「なんとなく、キザだ」
太宰にはさまざまな見方ができるでしょう。確かなのは、素直なひとではない、ということですね。「斜陽」や「人間失格」といった代表作にも、冒頭のことばと共通する罪の意識がみてとれます。なぜ、かれはこのように屈折した考え方になったのでしょうか。筆者は、だだっ広く、青々とした、かれの故郷の原風景にその手がかりがあると考えています。
太宰が生まれた青森県金木村(現・五所川原市)の現在の風景
太宰こと本名、津島修治(つしま・しゅうじ)は、いまからおよそ110年前、青森県金木町で生まれました。当時、津島家は「金木の殿様」といわれるほどのお金持ちでした。津島家の納税額はなんと青森県で上位4番目だったそうです。中学時代からの友人、中村貞次郎(なかむら・ていじろう)は津島家についてこう評しています。
「太宰の生家は、豪農の家らしく大きな邸宅であった。総二階で幾室も立派な部屋があった。そのうちに洋間が一部屋あってオルガンが置いてあった。階下の離れにも洋間があった。その洋間にはピアノを置いてあった。私は太宰にこのピアノは誰がひくのか、たずねたら『誰もひく人はないんだ、これは部屋の装飾だよ』と答えた。私はその豪華さに唖然としたものであった」
太宰の生家は現在、「斜陽館」という名の記念館になっている
うーん、うらやましいですね。太宰は何不自由のないお坊ちゃんとして育てられたのです。ところが、当の本人の認識は違っていました。むしろ、みずからの境遇をさげすんでいました。
「私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持ちの子というハンデキャップに、やけくそを起こしていたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持ちの子供は金持ちの子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた」
太宰の自伝的小説「東京八景」の一節です。筆者はここに人間・太宰をみます。
太宰は38歳で亡くなるまでの間、自殺未遂を4回繰り返し、薬物中毒にもなりました。雲間からさす光のように「走れメロス」や「富嶽百景」といった明るい作品もてがけましたが、終生、苦悩がつきまといました。生まれ育った環境にたいする違和感がそもそもの始まりだったようにおもえます。
太宰の師で小説家の井伏鱒二は太宰の人柄について「おしゃれはするが、おしゃれだと思われることが照れくさいひと」と評した
太宰の心象風景を知るには、当時の農業に目を向ける必要があります。大地主で、鉄道や銀行も経営していた津島家の富の源泉は、広大な農地からあがる収入だったからです。
当時の農家には3つのパターンがありました。1つ目が、自分で農地を所有し、自ら耕す「自作農」。2つ目が、地主から土地を借りて農地を耕し、小作料を支払った残りで生活する「小作農」。3つ目がその中間にあたる「自小作農」です。
津島家をささえていたのは、小作農でした。太宰が15歳のときの津島家の財力を示すデータがのこっています。津島家が所有する田んぼは東京ドーム46個分、津島家に小作料を支払う小作農は290世帯におよびました。小作農が津島家に支払う小作料は年間収穫量の半分だったそうです。
問題は、津島家が農地を手にすればするほど、豊かな暮らしとは縁がない小作農が増えるという現実でした。1897年ごろは1万2000人~3000人だった青森県内の小作農は、1926年には3万人を上回るまでになりました。自作農から自小作農に、自小作農から小作農に転落するケースが相次いだからです。一方、それと反比例するように、農地を拡張していったのが津島家でした。太宰がうまれ育った金木村からほど近い車力村(現・つがる市)の村史はこう解説しています。
「小作人から取り立てた米や金は、地主によって、こんどは商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された」
じぶんが栄えるほど、貧しいひとがふえるーー。太宰がさいなまれた感情はこれだといっていいでしょう。
国際社会で重視されているSDGs(持続可能な開発目標)では貧困解消が大きなテーマになっている
現代はどうでしょうか。先日、フィナンシャルタイムズという外国の新聞にこんなコメントがのっていました。米国・サンフランシスコ在住の元ITエンジニアのダウ・カウチさんが、心機一転、貧しいひとたちを助ける政治活動に取り組みはじめたという記事の一コマです。
「優秀で高い教育を受け、意欲も情熱もある人たちが誰かを金持ちにするための仕事をしている。私もそれに加担していた。だから今はもっと自分の価値観で生きようとしている」(カウチさん)
どことなく、太宰にちかいものを感じませんか。歴史は繰り返すのかもしれません。
(おわり)
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